天保13年(1842):七代目市川團十郎が江戸追放
七代目市川團十郎は天保改革における奢侈禁止令に違反したとして江戸を追放されます。こちらは木場二丁目公園内にある七代目市川團十郎宅跡です。四代目が木場島田町に邸宅を構えて以来、七代目團十郎まで市川家は代々居住していました。
奢侈禁止違反の理由のひとつに御影石の燈籠と載っていますが、右にあるのがそれでしょうか。成田山新勝寺のホームページを見ると、「江戸を離れることになった七代目を成田山では延命院に住まわせ、かくまいます。」と載っています。
嘉永3年(1850):佐久間象山が砲術塾
こちらが佐久間象山砲術塾跡です。こちらは永代通り沿いで、永代橋の近くにあります。江戸時代は深川小松町にある信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。
絵図を見ると「真田信濃守」その少し上に「小松丁」と載っています。天保13年(1842)藩主真田幸貫が老中海防掛に就任すると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争で険悪化した海外事情を研究しました。
蘭学の必要性を痛感した象山はオランダ語を学び、江川太郎左衛門に入門して西洋砲術も学びました。嘉永3年(1850)、深川小松町の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。
その頃江戸では、国定忠治がお縄になりました。「赤城の山も今宵かぎり」で有名な国定忠治は赤城山を根城に賭場荒らしや関所破りなど重罪を犯していました。一方で天保の飢饉の際には私財を投じて窮民救済に立ち向かいました。
安政3年(1856)頃:歌川広重が「大はしあたけの夕立」
歌川広重が名所江戸百景で描いた「大はしあたけの夕立」が挙げられます。世界的にも名高い傑作で、ゴッホに多大な影響を与えたことでも知られています。なお、「あたけ」とは大型軍船の安宅丸のことで、近くに御船蔵があり安宅丸が係留されていたことから、この辺りがその名でよばれるようになりました。
文久3年(1863):江戸湾防備の強化に越中島砲台
東京海洋大学の越中島キャンパス内には越中島砲台がありました。嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが乗った黒船が浦賀に来航して、江戸幕府は大騒ぎになります。幕府は近代砲術を学んだ江川太郎左衛門を勘定吟味役格に登用し、江戸を防衛するために洋式の砲台を置く品川台場の建設を始ました。
その後生麦事件の賠償問題をめぐり、文久3年(1863)、イギリス軍艦が品川沖に来航したため、江戸湾防備の強化が図られ、越中島を含めた新規砲台11基の築造が計画されました。
その頃京都では、新選組が結成されます。近藤勇や土方歳三の壬生浪士組が、三条実美ら長州系の公家が追放された8月18日の政変後、新選組と改名されました。
参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)