深川大江戸年表11

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文久11年(1828):間宮林蔵がシーボルト事件の発端に

間宮林蔵は伊能忠敬に師事し、樺太に派遣され樺太が島であることを確認しました。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は林蔵の測量が生かされていると云われています。その後密貿易調査の隠密活動に従事。文久11年(1828)林蔵の届出により、シーボルトと高橋景保との交流が明らかとなり、シーボルト事件の発端となります。

天保15年(1844)林蔵は深川蛤町で亡くなります。そのご縁で江東区平野に間宮林蔵のお墓あります。なお、蛤町は住民に漁師が多く、三代将軍徳川家光が隅田川を訪れ河口付近を視察したときに漁師たちがハマグリや小魚を献上したので、蛤町と呼ばれるようになりました。

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