深川大江戸年表2

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寛永6年(1629):深川ゑんま堂が創建

寛永6年に深川富吉町に創建され、寛永18年にこの地に移りました。法乗院は江戸時代から「深川ゑんま堂」として人々に親しまれ、広く信仰を集めています。場所は都営大江戸線門前仲町駅の近くにあります。こちらが深川の閻魔大王さまで、全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5tあります。他の閻魔さまは地獄のイメージで怖いお顔ですが、深川はイケメンです。

その頃江戸では、明正天皇が即位します。寛永6年(1629)11月8日、後水尾天皇がわずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位しました。明正天皇の母は徳川秀忠の娘、東福門院和子であり、徳川の血を引く天皇がここに誕生しました。

寛永14年(1637):阿茶局が83歳で亡くなる

家康の死後、側室は尼になるのが普通ですが、阿茶局は家康の遺命で剃髪が許されませんでした。家康はまだ盤石といえない徳川家には阿茶局の政治力が必要と考えたのかもしれません。その後、2代将軍秀忠の娘和子が入内のとき「御母堂代」として上洛し、従一位を贈られ神尾一位殿と称されました。秀忠が亡くなるとようやく剃髪が許され、雲光院と号し、家康の没後21年の寛永14年(1637)に83歳で亡くなりました。

その頃江戸では、島原の乱が起こります。寛永14年(1637)、肥前国島原で百姓が蜂起し、一揆勢約3万人が廃城であった原城に立てこもりました。首領の天草四郎時貞は16歳で美形、医術も心得るといった人物像が伝わり、一揆勢の精神的結束の象徴となりました。

寛永18年(1641)以降:深川の福住町に材木置場(元木場)ができる

寛永18年の桶町火事以後、深川の福住町付近に材木置場(元木場)ができました。写真の材木町と松平和泉守との間が亀堀で現在の亀堀公園になります。亀堀公園の公衆トイレ外壁には元木場の風景が描かれています。その後、元木場は幕府の御用地となり元禄12年(1699)に猿江に移転します。

その頃江戸では、鎖国が完成します。寛永18年(1641)、幕府は平戸のオランダ商館を長崎の出島に移住させました。徳川家光は寛永10年(1633)に鎖国令を発布し、寛永16年(1639)にはポルトガル船の来航を禁止しました。

寛永19年(1642):深川八幡祭りがはじまる

「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」深川八幡祭りは江戸三大祭のひとつとされています。三代将軍徳川家光に世継ぎ(徳川家綱)が生まれ、幕府から祝賀を命じられたのが深川八幡祭りの始まりと云われています。

その頃江戸では、寛永の大飢饉が起こります。西日本一帯の干ばつ、東日本の冷害による凶作。被害の詳細は不明ですが、死者が全国で5万人とも10万人とも云われています。

参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)

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