寛政12年(1800):伊能忠敬が第一次測量
伊能忠敬は寛政12年(1800)、富岡八幡宮を参拝した後、第一次測量で奥州街道から津軽半島、そして蝦夷地に向かいます。文化13年(1813)に測量が終了するまでに測量距離は4万3708キロメートルとなり、これは地球一周分に相当します。
測量の旅に出るときは富岡八幡宮に参詣していたことから、富岡八幡宮には伊能忠敬像があります。右手に携えるのは彎窠羅針(わんからしん)です。杖の先に羅針盤を取り付け、杖が傾いても羅針盤自体は水平を保てるようになっています。
その頃江戸では、伊藤若冲が亡くなりました。寛政12年(1800)9月10日、画家伊藤若冲が85歳で亡くなりました。伊藤若冲は京都の青物問屋の長男として生まれましたが、絵画と禅に傾倒し、家督を弟に譲って画家となりました。
文化4年(1807):永代橋崩落事件
文化4年(1807)富岡八幡宮の例祭には大勢の人が押し寄せて橋が崩落、1400名を超える死者・行方不明者を出す大惨事が起きました。
深川の海福寺では永代橋の崩落で亡くなった人々を供養するため供養塔が建てられました。なお、海福寺は明治43年に目黒に移転し、現在、江東区立明治小学校が建っています。
文化11年(1814):「南総里見八犬伝」の刊行が開始
「南総里見八犬伝」の刊行が開始された文化11年(1814)、曲亭馬琴はこのとき48歳で、すでに読本作者として不動の地位を築き上げており、円熟期を迎えていました。馬琴は博学でしたが偏屈で社交性に乏しく理屈っぽく、軽妙で洒脱な「黄表紙」は性に合いませんでした。しかし、勧善懲悪、因果応報が渦巻く「読本」は真面目な馬琴に合っていました。
こちらが曲亭馬琴誕生の地になります。場所は仙台堀川の海辺橋を清澄白河駅方向に進んですぐの「深川ふれあいセンター」の敷地内になります。
曲亭馬琴は明和4年(1767)に旗本である松平家の用人・滝沢興義の5男として、江戸の深川に生まれました。下級武士の暮らしを良しとしない馬琴は、仕事についても長続きせず、不安定な生活を続けます。
24歳の時、文章で身を立てようと山東京伝を訪ねます。弟子入りは叶いませんでしたが、京伝との交流がここから始まります。その後、馬琴は版元の蔦屋重三郎に才能を見込まれ手代として雇われます。その後、年上の女性お百と結婚し、履物商伊勢谷の婿養子となりました。
因果応報を軸に勧善懲悪が全編を貫く「南総里見八犬伝」は愛読者が後を絶たず大ヒットを続け、完成までに28年もの歳月をかけ、天保13年(1842)ついに大団円を迎えました。天保5年(1834)頃から、馬琴は目の病にかかり、口述・代筆で活動を続け、嘉永1年(1848)に81歳で亡くなります。
参考文献:深光富士男「図説 江戸のエンタメ 小説本の世界」河出書房新社 (2022)
文政8年(1825):東海道四谷怪談が中村座で上演
鶴屋南北の代表作である東海道四谷怪談では「深川三角屋敷」を取り入れています。絵図を見ると赤くマークしたと土地は三角形で、「三角ヤシキ」と書かれています。
深川の黒船稲荷神社地内には四世鶴屋南北が住んでいました。鶴屋南北は三世までが江戸歌舞伎の道外方で四世から歌舞伎作者となりました。四世は作者としては初世となります。寛政11年(1799)に立作者になり、「大南北」と称されました。
その頃江戸では、会沢正志斎が新論を著しました。文政8年(1825)、水戸藩の儒学者会沢正志斎が新論を著し、藩主に献上しました。新論では西洋列国の領土的野心への危機感を訴え、今こそ天皇中心の国家体制を築いて攘夷を行うべきだと説きました。
参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)