霊巌寺
関東十八檀林の一つ、深川白河町にある霊巌寺です。霊巌寺は浄土宗で、開祖法然は「南無阿弥陀仏」の念仏のみと説き「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来がいかなる人も救い、極楽浄土に迎えるとされています。
霊巌寺は元々霊巌島(現在の東京都中央区新川)にありました。寛永元年(1624)、今の日本橋川と亀島川、隅田川に囲まれた埋め立て地に霊巌寺が開山したことで、島の名前が霊巌島となりました。
2万坪、約6万6千平米もの寺域を幕府から与えられましたが、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火で消失し、深川の地に移転となりました。真ん中の〇の辺りが、現在の越前堀児童公園になります。
松平定信のお墓
こちらが松平定信のお墓です。定信は田安宗武の七男で、八代将軍徳川吉宗の孫にあたります。天明3年(1783)白河11万石の藩主になり、老中田沼意次失脚の後に老中首座となり寛政の改革を行いました。
定信の寛政の改革は財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令、七分積立金令、人足寄場設置令、出版統制令、異学の禁、江戸湾防備計画など、幕府財政再建のために農本主義を基調としていますが、都市政策や思想統制にまで改革を断行しました。
札差棄捐令:天明4年(1784)年以前に札差から借りた借金は棄捐(破棄)、天明5年(1785)から寛政元年(1789)までの借金は年利6%引き下げ、以後の利子は年利12%とする。
七分積立金令:地主が負担する町入用(町の運営や維持に必要な経費)を減額し、減額分の70%を積み立て、窮民を救済する。
造園家としても著名であった定信は隠居後、深川入船町の抱屋敷に深川海荘(ふかがわはまやしき)を造りました。場所は現在の大横川に架かる東富橋の辺りになります。
海荘は池を掘削した土で土山を造作して芝生を植え、そこから東は房総半島、南は品川・羽田、西は永代橋から築地、さらには富士山まで眺望できたと云います。
園内は桜、梨子、松、楓、躑躅、柳など様々な花木が植えられ、特に普賢象という遅咲きの桜は、世間の桜が散る頃に花盛りになり、定信が毎年桜狩りを楽しんだと云われています。
5番目の江戸六地蔵
霊巌寺には5番目の江戸六地蔵があります。江戸から延びる六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ建立し、旅の安全を祈願しました。
江戸六地蔵
1番 品川寺 品川区南品川3-5-17 東海道
2番 東禅寺 台東区東浅草2-12-13 奥州街道
3番 太宗寺 新宿区新宿2-9-2 甲州街道
4番 眞性寺 豊島区巣鴨3-21-21 中山道
5番 霊巌寺 江東区白河1-3-32 水戸街道 ※現在の記事
6番 永代寺 江東区富岡1-15-1 千葉街道 ※現存せず
アクセス
- 住所:東京都江東区白河1丁目3−32
- 最寄り駅:半蔵門線・都営大江戸線清澄白河駅A1出口徒歩5分
参考文献:ムック編集部「知っておきたい日本の仏教」(エイ出版社2014) 山本 博文「江戸時代 人名控 1000」小学館 (2007) 藤田 覚「松平定信―政治改革に挑んだ老中」中央公論社 (1993) 「江東区の文化財 4」江東区教育委員会(2009)