雲光院
阿茶局のお墓がある雲光院です。場所は大江戸線・半蔵門線清澄白河駅の近くにあります。阿茶局の法號「雲光院」がそのまま寺の名前となりました。
雲光院は浄土宗で、開祖法然は「南無阿弥陀仏」の念仏のみと説き「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来がいかなる人も救い、極楽浄土に迎えるとされています。絵図を見るとかなり大きな敷地で、徳川幕府にとって阿茶局がどれほど重要であったかを表しています。
阿茶局
阿茶局は武田氏の家臣飯田直政の娘で今川氏の家臣神尾忠重に嫁ぎましたが、天正5年(1577)に忠重が死に未亡人となります。天正7年(1579)、徳川家康に召し出され、家康の側室になります。側室といっても少し変わっていて、家康が戦場に行くときはいつも馬に乗って従いました。武家の女性が武術を学ぶことは珍しくはありません。ただそれは護身用であり、前線に出ることはありえませんでした。
大阪の陣の直前、家康は方広寺の鐘に「国家安康」を刻んだのは、家康の文字を分断し徳川家を呪うためだと難癖をつけます。阿茶局は家康に信頼され、片桐且元や大蔵卿局が弁明に来た際に外交交渉を担当します。また、大坂夏の陣の後には、淀殿の妹・お初との間で講和条約を取りまとめています。
家康の死後、側室は尼になるのが普通ですが、阿茶局は家康の遺命で剃髪が許されませんでした。家康はまだ盤石といえない徳川家には阿茶局の政治力が必要と考えたのかもしれません。その後、2代将軍秀忠の娘和子が入内のとき「御母堂代」として上洛し、従一位を贈られ神尾一位殿と称されました。秀忠が亡くなるとようやく剃髪が許され、雲光院と号し、家康の没後21年の寛永14年(1637)に83歳で亡くなりました。
神尾一位殿
阿茶局が贈られた従一位ですが、従一位は位階のひとつで個人の序列となります。家康が慶長8年(1603)征夷大将軍の宣下を受けた時の位階は阿茶局と同じく従一位でした。その他では春日局が従二位、吉良上野介が従四位上、浅野内匠頭が従五位下となります。
稲荷神社に行くと「正一位」と書かれた幟を目にします。位階は人だけではなく神様(神階・神位)にも奉授されました。稲荷神社は天長4年(827)に従五位下が授けられ、これ以降次第に神階が上昇し、天慶5年(942)、ついに正一位に昇格します。
アクセス
- 住所:東京都江東区三好2丁目17−14
- 最寄り駅:半蔵門線・都営大江戸線清澄白河駅B2出口徒歩5分
参考文献:山本 博文「徳川将軍15代」小学館 (2011) ムック編集部「知っておきたい日本の仏教」(エイ出版社2014) 火坂 雅志「戦国を生きた姫君たち」KADOKAWA (2016) 「日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本」新人物往来社 (2009) 「月刊江戸楽 2017年6月号」エー・アール・ティ (2017)