深川大江戸年表9

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天明7年(1787):松平定信が寛政の改革

霊巌寺にある松平定信のお墓です。定信は田安宗武の七男で、八代将軍徳川吉宗の孫にあたります。天明3年(1783)白河11万石の藩主になり、老中田沼意次失脚の後に老中首座となり寛政の改革を行いました。

定信の寛政の改革は財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令、七分積立金令、人足寄場設置令、出版統制令、異学の禁、江戸湾防備計画など、幕府財政再建のために農本主義を基調としていますが、都市政策や思想統制にまで改革を断行しました。

寛政3年(1791):深川が津波に襲われる

こちらが洲崎神社にある津波警告の碑で、看板の後ろにあるのが波除碑です。寛政3(1791)年松江藩主松平治郷などが贔屓にしていた料理茶屋、洲崎升屋が高潮で流され廃業となりました。看板を読むと「幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げ空地とした。空地の両端の北側地点に、波除碑を二基建立した。建立は寛政6年(1794)頃。」

「現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋の碑は上部約三分の二を失っている。」なお、上の写真は平久橋の波除碑になります。なお、下の地図を見ると位置関係がわかります。

その頃江戸では、山東京伝が手鎖50日の刑に処されました。寛政3年(1791)、深川遊女を描いた、仕懸文庫(しかけぶんこ)・娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)・錦之裏(にしきのうら)の洒落本三部作が風俗を乱すという理由で手鎖50日の刑に処されました。

寛政11年(1799):四世鶴屋南北が「大南北」と称され

黒船稲荷神社地内には四世鶴屋南北が住んでいました。鶴屋南北は三世までが江戸歌舞伎の道外方で四世から歌舞伎作者となりました。四世は作者としては初世となります。寛政11年(1799)に立作者になり、「大南北」と称されました。

参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)

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