宝暦7年(1757)木場に繁栄稲荷神社ができる
大丸さんのホームページを見ると、「宝暦7年(1757)江戸深川木場4丁目繁栄橋畔に木場別荘をつくり、一郭に繁栄稲荷を祀る。」とあります。こちらは江戸時代に伏見稲荷より分霊し、この地にお祀りしたのが始まりとされています。
現在の繁栄稲荷神社は東西線木場駅近くに移転しました。神社の後ろに大きなビルがあります。もちろん、こちらが大丸松坂屋百貨店本社ビルとなります。
その頃江戸では、田村藍水と平賀源内が薬品会を開催しました。宝暦7年(1757)7月、江戸湯島で日本初の物産会「薬品会」を開催されました。薬品会では本草学者や医師が薬物の調査研究の成果を共有することを目的としています。
明和6年(1769):三井親和筆跡の寛永通宝
江東区亀戸2丁目には寛永通宝を作る銭座があり、明和6年(1769)に作られた寛永通宝の文字は親和の筆跡と云われています。
深川の増林寺には三井親和のお墓があります。三井親和は書道の大家で深川福住町に住み、深川親和とも称しました。また、その筆跡を浴衣や手拭に染めた親和染が大流行しました。
安永5年(1776):平賀源内がエレキテルを修理・復元
こちらが平賀源内電気実験の地です。明和7年(1770)に源内が長崎遊学中にエレキテルを古道具屋から購入したと云われています。器機は大きく破損していましたが、源内が自分の手で修理・復元しました。エレキテルとは簡単にいうと摩擦を利用した静電気の発生装置。平賀源内は江戸のレオナルド・ダ・ビンチと云われ、多彩な才能を世に示しましたが、エレキテルを生み出したドイツのゲーリケさんです。
平賀源内は深川の清住町に自宅があり、ここ地で実験を繰り返しました。源内は生涯エレキテルを15台製作し、現存しているのは2台のみです。1台はスカイツリー近くにある郵政博物館、もう1台は故郷のさぬき市志度にある平賀源内記念館に保存されています。
天明3年(1783):工藤平助が「赤蝦夷風説考」を提出
心行寺には工藤平助のお墓があります。工藤平助は紀州藩医の三男として生まれ、13歳で仙台藩医工藤丈庵の養子になります。平助は医術のみに携わることを好まず、学を愛し、多くの優れた友人と天下を論じました。その後、天明3(1783)年に老中田沼意次に献白書「赤蝦夷風説考」を提出しました。
その頃江戸では、浅間山が大噴火しました。天明3年(1783)、上野・信濃の国境にある浅間山が噴火しました。死者1500人を出し、江戸でも火山灰が3㎝積もるほどの大噴火でした。
参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)