文久11年(1828):間宮林蔵がシーボルト事件の発端に
間宮林蔵は伊能忠敬に師事し、樺太に派遣され樺太が島であることを確認しました。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は林蔵の測量が生かされていると云われています。その後密貿易調査の隠密活動に従事。文久11年(1828)林蔵の届出により、シーボルトと高橋景保との交流が明らかとなり、シーボルト事件の発端となります。
天保15年(1844)林蔵は深川蛤町で亡くなります。そのご縁で江東区平野に間宮林蔵のお墓あります。なお、蛤町は住民に漁師が多く、三代将軍徳川家光が隅田川を訪れ河口付近を視察したときに漁師たちがハマグリや小魚を献上したので、蛤町と呼ばれるようになりました。
天保3年(1832):七代目市川團十郎の歌舞伎十八番
七代目市川團十郎は代々受け継がれてきた十八の演目を「市川流 寿 歌舞伎狂言組十八番」として公表しました。「助六」を皮切りに連続上演を開始し、荒事の代表的役柄の弁慶を主役に「勧進帳」を演じ、今日まで伝わる「歌舞伎十八番」の始まりとなりました。
こちらは木場二丁目公園内にある七代目市川團十郎宅跡です。四代目が木場島田町に邸宅を構えて以来、七代目團十郎まで市川家は代々居住していました。江戸時代に活躍したのは初代から八代目。七代目が最も有名で家芸の荒事の他に四代目鶴屋南北の世話物も好演しました。
その頃江戸では、鼠小僧次郎吉がお縄になりました。盗みに入った武家屋敷98カ所、盗んだ金は3000両以上。天保3年(1832)、怪盗鼠小僧次郎吉が日本橋浜町にある松平忠恵の屋敷で捕縛されました。
天保3年(1832):坪井信道が深川冬木町に日習堂を開塾
こちらが坪井信道日習堂跡です。場所は冬木町の深川第二中学校になります。坪井信道は美濃国に生まれ、九州各地を遊学し西洋医学を学びました。その後下関で医業を開き、文政3(1820)年江戸に出て、宇田川玄真の門下となります。天保3(1832)年に深川冬木町に日習堂を開塾し、この塾から緒方洪庵など多くの著名な蘭学者が輩出されました。
参考文献:山本 博文「見る、読む、調べる 江戸時代年表」 小学館 (2007)