永代橋

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永代橋

こちらは現在の永代橋です。江戸時代の永代橋は元禄11年(1698)に架けられ、現在の永代橋より100メートルほど上流にあり、長さは110間(約200メートル)で隅田川に架けられた最長の橋になります。

名前の由来は永代島に因んで付けられたとも、五代将軍綱吉の50歳を祝って付けられたとも云われています。当時の浮世絵を見ること橋脚が高く、船の出入りが多かったことがわかります。

赤穂浪士休息の地の碑

元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で赤穂藩主浅野内匠頭が高家吉良上野介に斬りつけ即日切腹を命じられました。

吉良邸跡の元禄市

浅野家は断絶、翌元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助が率いる赤穂浪士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り、上野介の首を取りました。

泉岳寺の赤穂義士行列

赤穂浪士が泉岳寺に向かう途中に永代橋を渡っています。永代橋の近くには赤穂浪士休息の地の碑があります。この地に「ちくま味噌」という味噌蔵がありました。お店の主と赤穂浪士の大高源吾は其角門下の俳人として交流があり、ここで甘酒がふるまわれたと云われています。

永代橋崩落事件

文化4年(1807)富岡八幡宮の例祭には大勢の人が押し寄せて橋が崩落、1400名を超える死者・行方不明者を出す大惨事が起きました。事故の原因は橋の老朽化が挙げられますが、それ以外に事故を大きくした原因は以下のようになります。

  1. 今回の例祭は12年前に喧嘩が原因で中止されていた富岡八幡宮の八幡祭りの復活で、各町内から出るねり物や山車の前評判が高く、7月には早くもその番付が売り出される騒ぎとなりました。
  2. 本祭の8月15日は雨、その後も雨が続き19日の開催となり、待ちにまった例祭を一目見ようと、永代橋は早朝から大勢の人々で埋め尽くされていました。
  3. 当日の朝、一ツ橋様が祭り見物のため橋の下を船で通るため、橋の通行は止められていました。船の運行が大幅に遅れ、通行止めが解かれると、たまりにたまった群衆が深川に向かって一気に走りだしました。

深川の海福寺では永代橋の崩落で亡くなった人々を供養するため供養塔が建てられました。なお、海福寺は明治43年に目黒に移転し、供養塔も現存しています。

目黒の海福寺

アクセス

  1. 住所:東京都江東区永代1丁目 ~中央区新川1丁目
  2. 最寄り駅:都営大江戸線・東西線門前仲町駅3番出口より徒歩15分
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