令和5年 成田詣 出世稲荷と七代目市川團十郎

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成田詣

真言宗智山派大本山の成田山新勝寺です。不動信仰の一大霊場として四季を通じて全国各地より年間一千万人が参拝に訪れます。

成田山の境内は六万坪の広さがあり、大本堂を中心とした諸堂伽藍が建ち並び、中でも江戸時代に建立された三重塔、光明堂、釈迦堂、仁王門、額堂は国の重要文化財に指定されています。

御本尊の不動明王は京都の神護寺に安置されていましたが、天慶2年(939)の平将門の乱平定のためこの地に渡りました。平定後不動明王はこの地に留まり、成田山新勝寺が創建されました。

境内でひときわ目立つのが三重塔です。豪華絢爛で色彩豊かな三重塔は成田山のシンボルタワーとなっています。近くで見ると鮮やかな龍や麒麟・獏が彫られています。

出世稲荷

出世稲荷は佐倉藩主・稲葉正通(いなば まさみち)が宝永年間に寄進したものです。稲葉正通は春日局の威光で若くして老中になった稲葉正勝の孫にあたります。

階段を上ると、赤く大きな提灯が目に映ります。その先にお社があり、吒枳尼天(だきにてん)様がお祀りされています。吒枳尼天様は商売繁盛、開運成就の御利益で信仰を集めています。

仏教の荼枳尼天はインドのダーキニーが前身となります。荼枳尼天の使いはキツネですが、ダーキニーのシンボルはジャッカルで、ジャッカルのいない日本ではそれをキツネと捉えました。こちらでは鳥居の前に売店があり、ロウソクとお揚げをお供えしてお参りします。

七代目市川團十郎

市川家と成田山との関係は古く、初代團十郎が子授けの祈願を新勝寺の本堂で祈願し、その甲斐あって二代目が生まれました。七代目も跡継ぎに恵まれませんでしたが、成田不動尊に祈願し八代目を授かりました。

最初の額堂は七代目が1000両を奉じて建てたとされ、「三升の額堂」と呼ばれていました。なお、額堂とは奉納された額や絵馬を掲げておくための建物です。

黄色の丸が延命院跡

七代目は10歳で團十郎を襲名し最高の名優と評判になりましたが、天保改革における奢侈禁止令に違反したとして江戸を追放されます。その後七代目は成田山の延命院に身を寄せていました。

菊花大会

境内では菊花大会が開催されていました。成田山菊花会が奉納した盆栽や鉢物などの多種多様な菊花が展示されます。

参考文献:大本山成田山新勝寺「成田山新勝寺 公式ガイドブック」時事通信社 (2020)

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